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しかしまた一方から考えると、今日の一般浴客が無遠慮になるというのも、所詮は一夜泊りのたぐいが多く、浴客同士のあいだに何の親しみもないからであろう。殊に東京近傍の温泉場は一泊または日帰りの客が多く、大きい革包かばんや行李こうりをさげて乗込んでくるから、せめて三日や四日は滞在するのかと思うと、きょう来て明日はもう立ち去るのがいくらもある。こうなると、温泉宿も普通の旅館と同様で、文字通りの温泉旅館であるから、それに対して昔の湯治場気分などを求めるのは、頭から間違っているかも知れない。
房一は苦笑した。とにかく珍客にはちがひなかつた。そして、たつた今さつきまで房一は彼等のお見舞ひでわれ知らず興奮し、緊張し、それからあの半シャツの男と言葉の上でなく、眼と眼で、構へと構へでやりとりした、それが突風の去つた後のやうな軽いあつけなさを残していた。
「さうなんです。ちやうどいゝ案配でした」
「このまゝでは責任者を出さなくてはならなくなる。手落ちは向ふにあるとしてもですよ」
私は時間を忘れているが、ひょッとすると、一二分、又、一二分というように、ねむっているのかも知れない。頭のシンが疲れている時には、頭をシャボンの泡だらけにして、湯につかりながら、後頭部からコメカミへかけて十分も十五分も静かにもむこともある。両耳を抑えて、湯の中へ頭をもぐしこんでシャボンを落して、又、湯の温度に同化してしまう。
「へえ。ちよつとばかし――」
坂を上り切ると、路はしばらくごたごたした小山の裾を曲り曲りして、やがて房一の乗つた自転車が心持下り勾配こうばいのために次第に速力がついた頃、突然前方に平地が開けて来た。それは河原町から急坂の路を見上げたときに上方にこんな場所があらうとは想像もできなかつたほどの、明い、開濶な平地だつた。房一は一瞬、路をまちがへて全然見当ちがひの所へ出たやうな気がしたほどである。
喜作はふりかへつた。そこへ房一も登りついた。三人は瞬間顔を見合せた。そこに、房一は自分よりは二つ三つ若い、だが禅坊主のやうな頭骨をした精悍な表情の神原喜作を見た。
相沢は満足さうに馬の首を叩きつゞけていた。房一は思はず微笑した。彼にはこの時の相沢がひどく愛嬌あるものとも見えたからである。けれども、房一自身の顔にさつきから現れているものも、ちやうど子供が好きな物を前にしたときに見せるあの熱心さと同じ表情だつた。
それつきりだつた。相沢からはその後何とも云つて来なかつたし、又向ふから来もしなかつた。けれども、訴訟のことは、たとへその日の相沢の気振りだけだつたにもせよ、房一が進んで聞きたい話ではなかつた。房一は、相沢といふ男からは、極端にむら気な、何か容易に手につかめないもどかしさを感じていたが、同時に、一脈の執拗さを受けとつていた。それだけに、競馬場でのあのくるくると廻るやうな、速い、曖昧な云ひ残しが、ふしぎに印象を残していた。
と、小谷はひとり言にしては大きい声で云つた。が、代りがないので又水の中へ放つた。
殆どおたがひの鼻と鼻とがくつつきさうな位置のまゝ房一はいやでも相手の黒味がかつた眼玉と向き合はなければならなかつた。それはこつちを見ている間中、ちつとも目瞬またゝきをしないふしぎな眼玉だつた。その上、あんまりしつこく見られるので、嫌でも気づかずにはいられなかつたのだが、その黒味は何だか鼠のそれを思はせるやうな薄濁りのしたぼやけた黒味で、そいつが墨のにじんだみたいに眼玉中にひろがつているのである。房一は何かの本で、眼はその人の心を映す鏡だ、といふことを読んだことがある。別にそれを覚えていたわけではないが、その眼玉は一体何を考へているのか判らないやうな気が房一にはした。
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